館長室から (加藤憲二元館長)

静岡大学附属図書館長 加藤憲二
加藤, 憲二
(巻頭言)「本の電子化と図書館 ― ことばの国での会議に出席して」
「静岡県大学図書館協議会会報」No.14 (2012. 5)

 スコットランドの首都グラスゴーは予想に反して最高気温が20度に達するほどの暖かい春でした。英国では黒いオースチンがお決まりのタクシーですが(それ以外のもありますよ)話し好きの運転手ジョンは二十数年ぶりの記録更新だと上機嫌。記録って、でもどんどん書き換えられるものだよね、とも付け加えて。夏はどうなの、と聞いたら、こんなものかな、と。後ろ向きになって熱心にしゃべるので私は前の車との距離が気になりましたが、そこはプロ。街では、さきの週末に夏時間が導入され、イースターも近づいて人々は太陽を思う存分楽しむように、まだ陽の高い公園で思い思いに午後の時聞を楽しんでいました。水曜の午後のことです。さて、年度を締めくくる卒業論文や修士論文などの審査を終えて一区切りした3月の下旬にスコットランドへやってきたのは英国の電子学術情報に関連して図書館と出版社が情報や意見を交換するUKSGという会議に出席するのが目的でした。iPadやKindleの登場とともに本の電子化が急速に進んでいますが、少し遅れて日本でも書籍の電子化の動きが活発になりそうですね。この原稿を書いているロンドンからの帰りの機内で読んだ朝日新聞の電子版の一面にも、政府が遅れている日本語の書籍の電子化に150億円を投入するという記事が出ていました。これに対して世界が舞台の研究分野の学術情報はいっそう速い速度で電子化が進んでいます。27カ国から840人が参加した (残念ながら日本からの参加は多分私一人でした) 2012年のこの会議の議論では、学術情報とそれを扱う大学などの研究機関の図書館のあり方が対象でしたが、それ以外の図書館についても同じだなと思われることがいくつもありました。

 図書館ということで私が興味深かったのは、ダブリンの公立病院の日本流に言うなら上級司書にあたる方が、25%もの図書費のカットにどのように対応したか、講演されていたことです。この分野の世界をリードする会議で大学や研究機関にまじって公立病院の司書の方が現場の話をする。その、全体を包括しようとする会議の姿勢に感心しました。得てして縦割り行政を投影してか分野別での会議やシンポジウムはあっても大くくりにすることがどうも我が国では少ないな、と。

さて電子化の話、に入る前にもうひとつ。今回の英国出張で私ははじめて大英図書館に足を運ぶことができました。館内もそうですが、ギャラリーはとりわけ圧巻でした。ダビンチの手稿や、オスカーワイルドの本への書き込みや、あふれるほどの展示の中でもぜひ見てみたかったのは13世紀はじめ、貴族たちが国王ジョンに飲ませた要求をしたためたマグナカルタ。本物、です。きれいで几帳面なペン文字で書かれた2、3千 (?) の一枚の紙は、この国の最も重要な、そしておそらく最古の公文書としてギャラリーの特別室に展示されていました。説明文には、この文書には何の拘束力もないが…。と書かれています。貴族たちが国王の執政を認める上で言うべきことを文書にした、ということでしょう。言うべきことをことばにする。それを文書にして残す。文書や書籍の保存 (アーカイビング) の基本がここにあるように素人館長である私はすっかり納得させられました。翻って我が国の古い古文書は、思い出すことができるご朱印状にしても用件だけをしたためた簡単なものでしたね。歴史を知る上では重要であっても、そこから当時の人々はなかなか見えにくい。この、語ること、書くことの歴史の違いは、図書館というものを考える上でもかなり重要だなと感じています。

さて電子化。もう紙数がなくなってきましたので、会議のトップの基調講演で、カナダ人のベテラン、スティーブ・アービスさんが指摘したことを紹介して終わりにします。図書館の司書の仕事に触れての内容でした。「人は質問します」「人は何でも聞きたがります」「自分のために」…。何を答えるか、どのように答えるか、そこのところが大事ですが、答えの先にあるのは、人と人がつくりだす “社会Society” です、と。私たちも、大学図書館の立場を少し踏み出して “Society” の中での図書館として、という視点をたまには持ってみませんか?

1%
「図書館通信 : 静岡大学附属図書館報」No.164 (2012. 3)

 新しく静岡大学のメンバーになられた皆さん、静岡大学へようこそ!

 大学も教育の場であることは高等学校と変わりませんが、その役割で大きく違う点があります。高等学校までは「今までに明らかになったこと」を<学ぶ>ことが教育の大きな柱ですが、大学にはそれに加えて、「まだ明らかになっていないことを考える、あるいは今までにないものを作り出す」、つまり<研究する>あるいは<創造する>ことを通して未来を切り開いていってくれる人を育てるという役割、使命があります。それを象徴するのが理工系の研究室にある様々な機器であるとともに、キャンパスの真ん中に近い位置にある大学の附属図書館です。

 21世紀に入って情報の電子化が急速に進み、理工系の分野では研究情報の大半が電子媒体を通してやり取りされるようになってきました。電子ジャーナルや電子データベースを扱う<見えない図書館>としての機能が現代の大学附属図書館にはあります。だからといって、場としての図書館の機能も決して色あせてきた訳ではありません。

 今までに明らかになったことを<理解する>という作業はひとりの頭の中で完結する作業ですから、<試験>というような形でその成果が評価されます。しかし、新しいものを生み出していく上では人との議論は非常に重要。これは広くコミュニケーションと捉えてくださって結構
です。そしてコミュニケーションは、<聞くこと>と<質問すること>から始まります。これから大学で大いにその手法も学んで下さい。そして先に述べた個人の営みである<理解>も、実は会話することによって、つまりいったん自分の外に出すことでいっそう深まることがしばしばです。そのようなことも考えて、図書館の中にも<話すことができる空間>をつくりました。多くの大学でコモンズcommons(公共的な土地や空間、広場などの意味)にラーニングを冠してラーニングコモンズと呼ばれていますが、静岡キャンパスの図書館では全体をLearning Parkというコンセプトでまとめグループ学習ができるスペースをハーベストルームと呼んでいます。浜松キャンパスの図書館も昨年行なった“プチ改修”でそのようなスペースを工夫して作りました。まだ十分ではありませんが活用してください。浜松キャンパスについては、少し長期計画ですが、浜松の土地柄を意識した、地域や先輩たちとのつながりを深めることもできる機能を加えた新しい図書館をStudents’ portという構想で練っています。

 また、図書館を大学の中で人が交流する場にしたいと考えて、ギャラリーを静岡館では一昨年の改装時に入り口横にもうけました。書道や美術ばかりでなく様々な活動が紹介されています。自分とは違った分野の静岡大学の仲間の活動に出会ってください。楽しいですよ、きっと。

  そして昨今とみに厳しいお金の話。
国立大学法人である静岡大学の運営は、国からの交付金約100億円(これが毎年1%減額され続けているという困った事態が続いています. ただしこの1%が表題にきている訳ではありません.)と、1万1000人の学生のみなさんからいただく授業料などのお金約60億円、これに私たち教員が大学外部から研究のために得る資金などをつかっておこなわれています。その皆さんからの納付金の1%(これです! 表題は.)を学生のための図書を購入する予算にする方向で検討を進めています。現在はその半分程度ですが、それが国立
大学の平均的な姿です。静岡大学はこの平均的な状況を変えようと考えています。
 最後に、図書館で活動してみませんか?
 附属図書館には学生モニターの制度があります。街へ出て自分たちで本を選ぶことも活動の一つです。快適な自分たちの図書館を作る作業に参加してみませんか?大学が違って見えてくるかもしれません。

駿河湾を望む 中規模総合国立大学の挑戦
「丸善ライブラリーニュース」第14号 (2011. 9.20)

丸善ライブラリーニュース 第14号[PDF]

(巻頭言)「3.11、それぞれの役割と連携」
「静岡県大学図書館協議会会報」No.13 (2011. 6)

  静岡では早咲きの桜が葉桜になり始め,大学では年度内最後の入学試験となる後期試験を翌日に控えた、2011年3月11日。途方もない自然の驚異が突然東北と関東地方を襲い、何十万という数の人々の暮らしを一瞬にして一変させた。あなたは,あの日、あのとき、何をされていましたか?

 22年度の学内予算措置をいただいた静岡大学浜松分館の改修工事の打ち合わせにちょうど館内に入ったところ,私はゆらゆらと気持ちの悪くなる横揺れを感じました。一瞬、めまいかと思うような横揺れでしたね。遠く東北の地を襲った、巨大な地震であることの実感も、まして10メートルをも超える高さの津波が2万人を超える人の命を奪っていったことなど、夜、やっと見つけた浜松駅のそばのビジネスホテルの部屋に入ってテレビのスイッチを入れたときでさえ思いもよりませんでした。少しづつ、16年前の1月、神戸に住む両親や兄家族に連絡がつかなかったことが頭の中をめぐり始めたのは、もう少し時間が経ってからのことでした。そして福島原発の事故。

 数日を経て,手元に届いた東北、北関東地方の国立大学図書館の様子は、この自然の驚異の大きさ、ひろがりに捉えようのない困惑を感じさせました。東北地方の大学のみならず、筑波大学では100万冊を超える図書が多くは書架もろとも転倒し、隣県の横浜国立大学でも10万冊を超える図書の落下があったとか。どのような助け合いが図書館同士で可能か、電話を入れた東京大学でも少なからずの被害があった模様。そんな中で早速、東京大学が、契約している電子ジャーナルを特例によって被災地の大学関係者に開放されたのは見事でした。緊急の医療情報を入手することができた研究者がいたことだろうと思います。私たちが静岡に帰省している東北・北関東地方の大学生に図書貸与のサービスを始めたのは震災6日後のことでしたが,そのきっかけは東北大学へ留学している学生からの問い合わせでした。このようなときに何ができるか。館長である私自身に、日頃からこれに対するシナリオが用意されていなかったことを忸怩たる思いで今噛みしめています。

 それぞれの大学図書館には、それぞれの任務が、設立の目的があります。財政状況が容易ではない中で,みなさんが日頃苦労して果たしておられる役割、仕事の意味は私が言うまでもなく決して小さなものではありません。ただ,それだけでよいか、どうか。これほどのつらい経験をなさっている方々に心を少しでも寄せて、私たちは,日頃なにをなすべきなのか。おそらくはもう少し視界を広げることが必要ではないだろうかと思っています。復旧があって,その後復興がある、というのが政治的な用語の使われ方のようですが、これだけの経験を国全体でする訳です。元へ戻るだけでは十分ではないでしょう。今までとは違った、意味のある形に戻らなければ、思いもかけず、なす術もなく命を失った幾万の方々に申し訳ないと思います。<連携>がキーワードではないでしょうか。今までにない、連携を私たちも模索してみませんか。

 この小文の最後に。海外の研究仲間から私のところにもいくつものお見舞いと、そして何かできることはないかという趣旨のメールが届きました。その中で、ドイツから3月16日の夜届いた「被災地の研究者を何人か、1年か2年受け入れる用意を整えた。該当者、希望者がいませんか。」というメールに、3年に一度顔を合わせる友人達のなんと見事な、実のある支援の提案かとしばし言葉をなくしました。空間を超えた、お互いの、そしてみんなの研究を持続させるための見事な連携の提案でした。

(静岡大学附属図書館長・教授 専攻は地球環境微生物学)

勝手と自由
「図書館通信 : 静岡大学附属図書館報」No.163 (2011. 3)

 新しく静岡大学のメンバーになられた皆さん、ようこそ。附属図書館一同、みなさんを心から歓迎します。きょうは図書館のお話をさせていただく前に、ちょっと別の話しを。

 何も拘束するもの(条件)がないよというときに、「勝手にしていいよ」という言い方がありますね。もっと突き放してしまえば、「勝手にしろよ」となりますが。日本の一軒家には、お勝手、あるいは勝手口という玄関とは別の台所へとつながる、あるいは直結する小さめの出入り口がしばしばもうけられています。正式な玄関とは違って、内々の出入り口。私は映画でしか知りませんが、東京では「ご用聞き」がこのお勝手から顔をのぞかせていたのですね。
 勝手が入った言葉には、「好き勝手」。これは少し顰蹙を買うような行動への言葉ですが、「好きにしていいよ」と言う言い方もあります。余裕が感じられますね、言う方に。しかしこれらはすべて、制約(縛り)がない、ということを言っています。
 ところで、「どうぞご自由に」という言い方もありますが、ちょっと気取っている、と思われるのかあまり使われません。ただそれはちょっと違うかな、と思います。そもそも<自由>という言葉の持つ意味が私たちの日常生活の中にはしっかりと根付いているとは言えないのではないかと私はかねがね思っています。そしてこの<自由>という考え方が、大学という<最後の>教育機関にあっては一番大事ではないかとも思います。
 <自由>というのは、制約がない、というだけではもちろんありません。それを求めて西欧では人々の激しい闘争の歴史があった。それは人間の基本的な権利として求められてきたものですが、今の日本の大学にあってもやはり根幹に位置づけられるべきものだと思います。自由に、自由闊達に振る舞うには、やらねばならないことがある。自由に振る舞うためには明文化されていない様々な、それぞれの立場や場面でやらねばならないこと、やってはならないことがあります。それをみなが行うことによって生まれる自由、気持ちのいい空間と時間。自由闊達な雰囲気。それが新しいものを生み出す大学の土壌をも作っていくと思いますし、何より人が育っていく場の基本だと思います。勝手口とは違って、正面玄関から堂々、ですね<自由>は。

 では図書館の話。
iPadや(iPad2がでましたね)Kindleの普及からもわかる通り、紙でできた本はどんどんと電子情報に置き換わってきています。みなさんが専門課程に進んで卒業研究に取り組むようになったり、大学院に進むと、特に理工系では英語で書かれた論文を読むことが日常になりますが、世界で発信されている理工系の研究論文のほとんどが電子で配信されるようになりました。静岡大学のメンバーになられたと同時に、図書館の中ばかりではなく、研究室やセミナー室など大学のさまざまな場所で、パソコンから数千の学術雑誌にアクセスすることができます。理工系の最新の研究論文を読むために図書館へわざわざ出かける必要はほとんどなくなりました。人文社会系や、法律のデータベースも量的な大小はありますが、電子情報での配信が増えてきています。

では図書館はもういらないの?
そうではありません。

毎年たくさんの本が紙で出版され続けていますし、何より静岡大学附属図書館には120万冊の本があります。大学のキャンパスの中で、講義室と生協食堂以外に行くところがない? 是非図書館へ来て下さい。
 電子情報化の時代の流れの中で、静岡大学附属図書館も大きく変わりつつあります。大学には附属図書館を備えなさい、という法律があって附属図書館は作られたのですが、そのような法律はもうありません。つまり、我が国の大学ではもう図書館はあってもなくてもよい、極端に言えばそのような変化の中で、静岡大学附属図書館は大きく変わろうとしています。昨年度の始めに静岡館はリニューアルオープンしました。入り口横に静岡大学の学生や教員の交流の場のギャラリー。教育学部の学生さんたちの書道や美術の展示の他、人文学部のゼミによる図書館にある江戸期の本の紹介、理学部の教員による地震研究の紹介など、日頃の活動をお互いが知り合う場に育っています。
 入退館ゲートではIDカードが必要ですが、これは地震などの緊急時に誰が図書館の中にいるのか、速やかに情報を得る役割もします。その向こうにはカウンター前にゆったりした空間を用意しました。本のことは気軽に図書館員(ライブラリア)に聞いてください。大学にやってきて、まだ仲間もいないので、すっと下宿にかえる、ではちょっと寂しいではありませんか。PCワークエリアもゆったりとってありますから、ここでなにか探し物でも見つけてライブラリアンに気軽に話しかけてみてください。
携帯は、電話ボックスで!3階には個室ブースを6つ用意しました。卒論や学位論文の作成などに活用してください。空いていれば自習ももちろんOKです。そして5階には閲覧スペースの奥にグループ学習に適したハーベストルームを用意しました。場にふさわしい範囲内の会話はOK。時にはゼミが開かれていますので、自由に見学したりそっと参加したりしてはどうですか?まずはファミレス気分の椅子で、クラスの人と誘い合ってカリキュラムを広げて情報交換してはいかがですか?

 そして、お待たせしました、浜松キャンパスもかわります。改修工事が終わる7月まで、ご迷惑をおかけしますが今少しご辛抱ください。この期間も部分的には使えますので。

 さあ、附属図書館を<自由に>使って、あたらしい、あなたらしい静大キャンパススタイルを作って下さい。それらが集まっていけば、<静岡大学図書館>の新しい<文化>が生まれてくるのではないかと期待しています。(地球環境微生物学) (2351)

講演「オープンアクセス,ポスト・ビックディール,大学図書館」
国立大学図書館協会北海道地区協会セミナー 「次世代ライブラリアンシップのための基礎知識」 (2010.10.8 北海道大学遠友学舎)

発表資料[PDF]

大学には図書館がある!
「図書館通信 : 静岡大学附属図書館報」No.161 (2010. 4)

 学部と大学院合わせて2600人の新しく静岡大学のメンバーに成られた皆さん、ようこそ静岡大学へ。みなさんの今の気持ちを、今の自分を裏切らないように、大学生としての、大学院生としての生活を送ってください。みなさんは、静岡大学でそれぞれ学びたい学部や研究科が既に決まっている訳ですが、大学にはもう一つ、みなさんの学習と研究を支える図書館があります。国立大学が法人化して6年、静岡大学も荒波にもまれて財政的には厳しいことが多いのですが、図書館は是非みなさんの静岡大学ライフをしっかり支えようと考え、行動しています。

図書館は、結構遅くまで開いている
 静岡大学の附属図書館には今、119万冊の本があります。これは全国の国立大学では23番目の数字です。多いと思われるか、少ないとおもわれるか。毎年1万3、4千冊づつ蔵書が増えていますが、これはもっと頑張って増やさねばいけない数字だと私は考えています。学習参考図書に費やす大学の予算は年間2800万円、約5500冊の本を買っていますが学生数からすると二人に1冊にしか成りません。是非、一人当たり年間1冊の学習や研究の参考図書を買いたいと考えていますが、いかんせん年間の大学全体での事業費が36億円ほど。光熱費に始まって日常活動に必要な経費や、人件費、教育活動に必須の経費、校舎の改修費なども盛り込まなければ成らない経費の中でのやりくりです。

 その図書館ですが、平日は朝9時から夜10時まで。週末や祝日も朝9時から夜7時まで開館しています。夜間主の学生の皆さんにはもう少し時間延長を、との声もあり申し訳ないのですが、結構夜遅くまで開館しています。自分の生活ペースに合わせて大学ライフを作ってみてはいかがですか?

まず、新入生セミナーで
 高等学校からあるいは様々なステップを経て学部に入学された皆さんには、図書館職員がほとんど総出で、30人前後のクラス単位で図書館の使い方、本や論文などの学術情報をどのように手に入れるかをパソコンに使っていただきながら説明する時間が新入生セミナーの中に設けてあります。クラスによっては、さらに上級コースのアドバンス編も用意してあります。図書館からみれば、昨年は合計127回のセミナーを開きました。是非セミナーに参加して、情報をいつで手に入れることができる体制をまず作ってください。進級してからもセミナーがあったらよいという声も聞かれます。図書館職員(ライブラリアン)は裏方でもおおくの仕事をこなしています。その調整をし、可能であれば新たな支援もしたいと思っています。

電子ブック
 KindleやiPadなどの出現が読書の新しい波となって押し寄せています。すでに電子媒体で読書を楽しんでおられる人もおられるでしょう。研究に関する書籍の電子化も進んでいます。静岡大学ではシュプリンガー社などから出版されている1万冊の電子図書が読めるようになっています。これらは是非研究室のゼミなどで使っていただきたいなと考えています。

電子ジャーナル
 大学院生はもちろん、学部生も研究室のゼミなどでは世界最先端や、歴史的に重要な論文を読む必要があります。この論文の多くが電子媒体で供給される仕組みが出来上がっています。静岡大学では世界で発行されるおよそ5000のジャーナルと、いくつかの重要な専門のデータベースを大学のどこからでも見ることができます。近い将来、静岡大学のメンバーであれば学外からでもこの、目に見えない図書館にアクセスできるようにしたいと考え、準備に取りかかろうとしています。

教員の研究が一目で分かる電子リポジトリ
 静岡大学ホームページのトップ頁右上にある、ブルーの地球儀がロゴのリポジトリのボタンをクリックしてみてください。ここでは4000以上の静岡大学発の研究成果をみることができるようになっています。最近静岡大学に赴任した教員や、まだ成果を登録していない教員からも早く成果を登録していただいて、充実した電子リポジトリを作り上げてゆきたいと考えています。皆さんが知りたいと思った教員がどんな講義をしているか、シラバスへもリンクしたなかなか優れもののリポジトリです。一度のぞいてみてください。

静岡大学の図書館文化を
 仏作って魂入れず、ではありませんが器も必要ですがそれだけでは何もなりません。是非、静岡大学らしい図書館を静岡キャンパスと浜松キャンパスにしっかりと存在させたいと思います。静岡は海の見えるリニューアルした図書館を、浜松は正門を入るとすぐ左手にある立地条件のよい図書館を多いに活用してください。そして、大学らしさと静岡らしさ浜松らしさの融合した活気ある図書館にするために、皆様の声や、時にはご協力もお願いしたいと思います。

静大図書館HP「館長室から」掲載記事一覧
http://www.lib.shizuoka.ac.jp/koho/?kancho

  • Learning Parkへ静岡館リニューアル! ―静岡大学図書館の<文化>を作りませんか
  • 附属図書館本館の模様替え – Learning Parkへ
  • (巻頭言)「見えない図書館」
  • 本を捨てる、10年後を考えて
  • (巻頭言)カフェ、イン ライブラリー
  • ライブラリーへぶらり
(巻頭言)「ジョージ・オーウエルと<仕分け>と図書館」
「静岡県大学図書館協議会会報」No.12 (2010. 3)

 日々の暮らしに流れ、齢を重ねると「筋を通すこと」に疲れ、「マッイイカ」と思うことが多くなる。このごろの若者ははじめからそのような傾向があるのかもしれないが。先日ふとこれはまずいぞと思い、このようなときの助けにとジョージ・オーウエルを街の書店で一冊買った。彼の最初の評論集「象を撃つ」。眠りに落ちる前のひととき、川端康雄さんの見事な訳が相俟って、ビルマの地で<自ら>に出会う20世紀はじめのイギリス青年の姿があざやかでさわやかな言葉で私の脳の中に現れる。あるいは、スペイン戦争がついこの間、そこにあったように語られるのを直接に聞く思いがする。そのような時間を少しもって、わが日常のことどもにかえりつつ、明日ヘと気持ちをつなぐ。

 さて、図書館。法人化後の旧国立大学へ押し寄せる波は一層高くなっている。今私の手元にある決済待ちの書類は、「国立大学法人における公共サービスの改革状況に関する調査について」。行政刷新特命担当大臣の公共サービスの見直しの進め方に関する指示を受けて行われている調査票である。国立大学法人の事務の見直しの中で、図書館にも民間活用ができるものは何かと聞いてきている。1.選書、発注業務、2.受け入れ業務、3.目録作成業務、….6.利用者応対業務、7.配架業務、….これらの業務のうち外部委託はどの程度進んでいるか?一括して外部委託していない場合は「対外的に合理的な説明が可能か(ならばそれを明記せよ)」というような内容。図書館は、すでに多くのパート職員や派遣職員の方々に支えられて運営している。この方々との契約のルールを守りながら(実はそれ以上の働きをしてもらっていると思っている)、図書館として一体となってベストを尽くす方向でいつも運営を考えているのが管理職の現状である。内閣府から静岡大学に届けられたこの調査票は、いったいどれだけ現場を見、中身を知って書かれた調査票かと疑わざるを得ない。いや、いや。これ自体が内閣府の担当から外部へ委託されて作られたものだとすれば合点が行く。現実とは関係ないところでコスト削減だけが課題となっている。

 組織が組織としてその存在意義を体現するために何をしなければいけないか。私は3年前に静岡大学の附属図書館長となったとき、常勤職員18名に対して非常勤職員と派遣職員の数がそれを上回ってはじめて運営されている実態にいささか驚いた。そしてこの比率は大きな図書館になるほど後者が大きくなるようであることを知ったとき、組織における常勤職員の位置は明確だと思った。日々の仕事において、常勤もそれ以外の雇用形態の方々も同じくFor the Libraryの意識を持っていただきたい。ただ、視野に入れておくべき職務の範囲が違うし、当然責任のありようも違う。その中で修正しながら出来上がり、毎年のように定員を減らされながらも、その機能を果たしているのが図書館の実態ではないだろうか。組織が<ひと括りのモノ>として仕事の一部を外部に委託するというような場合、そのひと括りが、しっかりと組織のフレームの中にはまり込むかどうか。切り取りによってコストダウンがはかられるということと、人が働いて仕事が進んでいるという全体がうまくかみ合うかどうか。

 自分の目で見、感じとり、考えるスタイルを譲る訳にはいかないと、オーウェルは言っていたように思う。

(静岡大学附属図書館長・教授 専攻は地球環境微生物学)

Learning Parkへ静岡館リニューアル!
―静岡大学図書館の<文化>を作りませんか
「図書館通信 : 静岡大学附属図書館報」No.160 (2009.12)

 大学をとりまく財政状況には厳しさがつづく中、学内の理解を得て静岡本館(これからは静岡本館、浜松分館ではなく、静岡館、浜松館、という呼び方をする方向へチェンジしようと館長としては考えています。そのワケは最後に書きます.)では大規模な改修工事に入りました。この策定作業は、いくつかの委員会を経て進めましたが、何より、図書館のモニター会議の学生の皆さんから意見を聞く機会を設け、さらに2度オープンにユーザーの声を聞く機会を持ちました。参加していただいた人の数には限りがありましたが、2度の図書館リニューアルオープンの意見交換会は予定の時間を超えて学生と教職員の皆さんで考え方やアイデアを交換することができました。2010年4月のリニューアルオープンに向けて工事がちょうど始まりましたが、この機会に皆さんとの意見交換をふまえながら、私が考えてきたことを書いてみます。

なぜ改修をするのか?
 21世紀に入り、大学図書館の機能が二極分化する傾向が顕著になってきました。一つは電子媒体の普及に伴う<見えない図書館>としての機能。特に研究を支える学術情報の提供については、紙媒体から電子媒体への移行が急速に進みました。これは世界的な傾向です。このことによって、学術雑誌の利用について図書館という<場>は不要となり、同時に開館時間という<時>の制約もなくなってしまいました。このことから図書館のスペースの使い方にも変化が必要だと考えています。もう一つが、活字離れ、図書館離れ。これは、必ずしも世界的な傾向というものではありませんが、我が国の国立系大学では全国的にみられる傾向です。静岡大学では平成17(2005)年度には両館あわせて年間50万人以上の利用がありましたが、2008年度にはそれが44万人へと減じています。媒体の電子化が減少を加速させている側面はあるでしょうが、時代に見合った、魅力ある大学図書館への転身が求められていると考えました。図書館を、大学の中にあって教育と研究のためにもっと自由に、そしてたのしく集まることができる場所へと転換させたいと考えています。Learning Parkをキャッチフレーズにしました。

どのように改修するのか
 講義室と図書館、ゼミ室や研究室と図書館がもっと直接につながって、みなさんに有効活用していただきたい、というのが一つ目のコンセプトです。そのために、6階に情報端末機を用意したゼミルームを3つ用意します。一部屋10数人から20人のグループで使っていただけます。可動式の仕切りを動かせば50人規模の講義にも使えます。図書館が毎年新入生全員に行っている情報リテラシーの基礎セミナーにも使いますが、大いに研究室やグループで活用してください。情報コンセントが設置されているだけでなく、必要な図書をすぐ探しにいくことができる魅力もあるかと思います。
 つぎに論文作成などに活用していただけるように、少し贅沢な個室ブースを6つ、3階に設けます。それぞれの研究室ではなかなか静謐で広さも確保された空間は得られにくい現状を考えて、設けることにしました。平日は朝9時から夜は10時まで開館している利点も大いに活用してほしいと思っています。
 そして今までになかった一番大きな機能としてグループ学習を可能にするスペース(一般にラーニングコモンズと呼ばれるスペース)を5階に設けます。収容人数は約70名。向かい合って気楽に議論ができるようにファストスード店タイプの椅子や、自由に動かすことができるテーブルと椅子を用意します。このスペースをどのように活用するか、図書館の中のどこに設けるかについてはずいぶん悩み、何人もの学生や教員とも意見交換しました。活発な利用、新しいかたちでの図書館の利用を、図書館のボディともいえる5階の閲覧空間の先に用意することになりました。コンシェルジェ(Learning concierge)と仮に呼んでいる大学院生の協力を得ようと考えていますが、何より利用者である学生の皆さんで、<静謐さ>と<必要な議論>とが少しの空間と遮蔽を置いてうまく調和するような、静岡大学図書館の新しい雰囲気、文化を創っていただきたい。図書館はそのお手伝いを大いにさせていただこうと考えています。

図書館のもう一つの機能―人と人との出会いの空間
 空間と書物を提供するだけではなく、図書館にはもう一つ重要な役割があると考えています。それは、研究や教育にかかわって人が出会う、少しくつろいだ場所でもあるということではないかと思います。
 そのひとつに、図書館職員(ライブラリアン)による文献探しなどのサポート機能があります。学生の方々にとっては教員とはひと味違った(そしてここが重要ですが、「やや気楽に」)プロによる勉強や研究に関わる情報収集のサポートが受けられるということがあげられます。ここは大学キャンパスの中で職員と学生が出会う貴重な場だと考えられます。このために、ゆったりとしたカウンタースクエアを4階の正面入り口の奥にもうけます。ぶらっと新聞を読む場所や、留学生がもっぱら活用できる資料などもここに集めます。留学生との出会いが自然な形で増えていけばよいなと考えています。
 そしてもうひとつ。4階正面入り口の左側の、館長室をギャラリーに改修します。個人やグループで、この空間を使って自分たちの作品や学術成果を紹介する貸しギャラリーにしたいと考えています。もちろんお代はいただきません。トーク会場になってもよいかもしれません。

浜松分館を浜松館へ
 静岡大学は残念ながら二つのキャンパスから成り、浜松に約40%の学生がいますが、図書館のスペースや蔵書数、蔵書内容ではこの比率になかなか見合っていません。大学としての経緯があるようですが、不平等感は否めません。そんな中でなんとか清潔感のある図書館を、館員と協力していただいている学生さんたちで維持し、そして浜松分館は実際によく活用されています。私としては館長に就任以来、学生参考図書(この予算そのものが少なすぎて学生あたりにすると約2800円です.授業料の1%程度に何とか増額したいと考えています.)の予算配分を浜松に少し厚くしたり、浜松と静岡の間の図書の配送便を隔日から毎日にしたり、浜松分館にあった空きスペース(機器室)を改修して書庫にかえて収納スペースを約1.8万冊分増やしたりしてきましたが、まだまだ不十分です。そのような状況の中で静岡館には上に書いたようなリニューアルの予算を獲得することができました。静岡大学としての基盤を備えつつ、浜松キャンパスの特性に見合った大学図書館に浜松分館をかえていく必要があります。その意味でも、浜松館、という呼び名を用いてはどうかと考えています。館長としての残りの1年、できることは少しずつですが前へ進めようと思います。

附属図書館本館の模様替え – Learning Parkへ
(2009. 4)

 21世紀に入って世界の大学図書館でその役割の見直しが始まっている。流通する文字情報の多くが印刷された書物の形態から電子の形に変わってくる中で、大学図書館も自ずとその役割が変わってきた。大きく括るならばそれは、研究論文などの学術情報は電子情報として大学での教育研究に提供するようになり(これを<見えない図書館>と呼ぼう。附属図書館ホームページ「館長室から」をご参照ください。)、一方は、人々(大学人)が集まって学びの場を共有する<見える図書館>としての機能の強化であると言えよう。

 ややもすると歩いて数歩のところにいる人との情報伝達も対流圏を越えた電子メールでのやり取りになってしまった今日、挨拶さえもがそれに準じている。しかし、<何かを同じくするひと>が「そばにいること」の重要さは(ふたたび恐縮ですが「館長室から」の拙稿をご覧ください。同じことを言っているだけですが。)理解いただけるのではないだろうか。とりわけ法人化のまだなお(あるいは一層)荒波の中にあって、目標計画立案、自己評価、外部評価、学生による評価、FD, 評価、評価、評価。自己教育研究資金の枯渇。研究、論文作成、外部資金の申請書、申請書作成。そのような作業に追われる教員たちは、果たして今までと同じように学生と接する時間を確保できているのであるうか。うまく立ち振る舞いのできない学生に果たして目配りする気持ちの余裕が教員たちにマダあるだろうか?そして本来大学が持っているべき学びの形とはどのようなものであったかと思いいたすならば、なにより同じことに興味を持つものが集い、学ぶことではなかったか。そのような空間を、異分野の人たちの出会いをも可能にするような開かれた場に用意しよう、というのが2009年から図書館が進めようとしているLearning Park構想です。

 <静岡大学>に出会う、情報を世界から得る、共有する、意見を交換する、授業に関連する学習を進める、教え合う4階はLearn & Moderate Chatの空間。学術情報と個人で向き合い、考えるScience Input & Output空間の3階。静謐な読書空間の5階。そして電子情報を駆使したセミナーのためのスペースと、市民との交流の促進も狙った講演会や電子会議のための空間を用意した6階。1、2階は安全性を向上させた書庫空間。これらをあわせてLearning Park。おっと、Learn & Moderate Chatの4階には、学生が縦の関係を作ってくれるきっかけともなることを願って、大学院生によるLearning conciergeもおこうと思います。海の見える図書館で、静岡大学らしい図書館をいっしょに作りませんか。

(静岡大学附属図書館長)

(巻頭言)「見えない図書館」
「静岡県大学図書館協議会会報」No.11 (2009. 3)

 大学附属図書館は、時代の大きな分かれ目に来ていると感じています。

 2000年を境に、国際的な学術雑誌が一斉に電子化されました。研究に必須の学術情報を提供するスタイルが紙媒体から電子媒体へと大きく移行したことになります。私は明らかに旧世代の人間ですから、雑誌を手に取ってページを繰ることに慣れており、またその「なれ」は安心感をもたらしますが、やはり、電子化された情報は使い勝手がよい。静岡大学では、エルゼビア、シュプリンガーなどの大手出版社から、発行されている雑誌すべてが読める購読システムを全国、全世界の多くの研究機関と同じように購入しています。この購読スタイルが行き渡ったおかげで、全国の多くの大学であまり格差のない研究情報の取得が簡単になりました。これが「見えない図書館」です。その見えない図書館の電子ジャーナルは、毎年5%以上の値上がりが続いており、このような購読スタイルを維持できない大学が一昨年あたりから出始めています。オールオアナッシングの、あまりに単純な図式が学術情報という研究と教育の基盤を脅かしています。大手出版社の経営姿勢や価格設定に問題がありますが、これはひとことで言えば、世界の文化を支えてきた印刷-出版というスタイルから、電子情報よる学術成果の公開へ、つまり、「学術情報をどのように広めるか」とうことと「それをどのように経済ベースにのせるか」ということについて世界はまだきっちり移行ができていないということではないかと考えています。その渦の中で、静岡大学も早晩、厳しい選択が迫られます。

 見えない図書館には電子媒体としての情報発信の機能もあります。静岡大学では、塚本副課長を中心に教員の業績を電子化して公開する、学術情報リポジトリの構築に取り組み始め、平成20年4月にこれを公開しました。現在、原著論文2,006本、その他の論文など536本、合計2,542本の業績を自由に読んでいただく体制ができ、目下鋭意これを充実させているところです。静岡大学で発行する20を超える紀要なども、静岡大学ジャーナル(仮称)という形のもとで発信する計画も動き始めました。

 もう一つの情報発信の形に、e(電子)-ブックによる図書の公開があります。1月に慶応義塾大学の館長から知りたかったことを直接うかがう機会がありました。慶応大学はアジアで唯一Googleのe-ブックプログラムに参加して、福沢諭吉の図書、確か70冊ほどを電子化し、公開する活動に取り組まれています。Googleの大きな試みにはまだまだ課題が山積しているのではないか。慶応はどのような理由でこの時期、率先して参加を決められたのだろう、というのが私の疑問でした。答えは明解でした。世界には諭吉の研究者が散在している。慶応のHPに電子化された資料をおくだけでは、とりわけ日本語というマイナーな言語で書かれた図書にたどり着く確立は高くない。であれば、読んでもらうために、Googleという大きな馬車に乗る、という趣旨だったと思います。福沢諭吉という大きな財産、著作権切れという好都合、これらが重なっての船出であったようです。学術情報を巡って、時代は確実に次のステップへと動いているようです。

本を捨てる、10年後を考えて
「図書館通信 : 静岡大学附属図書館報」No.158 (2008. 4)

 春が巡ってきて、本棚の整理をした人も少なくないのではないだろうか。受験参考書に決別し、静岡大学にこられた新入生諸君には、「ようこそ」。研究室の書棚を整理して研究生活にピリオドを打たれた先生には「ごくろうさま」を心から送りたい。わたしたちはそれぞれの人生の過程で、必要な本に囲まれている。情報の電子化が進み、机の上からノートが消えて、速報性が重要な意味を持つ研究情報の多くは電子化されても、やはり本は、その時々のわたしたちの人生の伴侶として身の回りにあることが多い。

 信州から静岡の大学宿舎に移った7年前に、私もずいぶんの本を捨てた。埃にまみれ、時代の中で私自身もアレルギーを感じるようになって、一層手に取ることもまれになっていた本を捨てることにあまり未練を感じることも無く、二束三文で私の書棚にあった本は松本の古本屋の店先に積み上げられた。高校時代から眺めていたいくつもの背表紙は、網膜の中にのみ残し、人生の後半に向かうのだぞという気持ちもいくらかあった。今は書棚がひとつ。父親から貰った岩波の寺田寅彦全集が一段の半分を飾っているがあとは本やら書類やら。読みかけの本は枕元辺りに積み上げてある。50の半ばを過ぎて、もっと身軽に、という思いこそあっても、本に囲まれた書斎を持ちたいという気持ちはもう無い。限られた時間を生きる一人の人間として、これはこれでよいのだろうと思う。では、図書館はどうか。

 わが静岡大学附属図書館も他聞に漏れず毎年数千冊の本を購入するので、もう図書館はいっぱいである。蔵書数110万冊あまり。これが毎年増加を続けている。捨てなければ、増える。では、どの本を捨てればよいのだろうか。どのような手続きを経て、本を捨てていけばよいのだろうか。附属図書館の図書の購入に関しては、図書館の司書と教員による選定委員会があるほか、ユーザーの声を聞くシステムもあり、これに加えて学生だけで図書を選んでもらう仕組みも用意しています。平成19年度には図書館職員と学生モニターの数名が30万円の予算で静岡の町に出て、手にとって本を選んでもらう試みも実施しました。残念ながら30万円は使い切れなかったようですが。ところが、本を捨てる仕組みは、実はまだ整備されていません。

 4年前に、全国90あまりの国立大学は一斉に法人化しました。今まで国立大学として良くも悪しくも文部科学省の傘の下にあったモノが、法人となった大学には様々な事柄から直接社会の一員であることを思い知ることがありますが、<資産>という考え方もその一つかもしれない。静岡大学の資産は、いくらだと思いますか? 約 00億(?)。多くが土地と建物ですがその一部を図書館の書籍がしっかり占めています。かりに1冊千円とすれば11億円ですね。図書は、時間の経過で評価額が下がるのではなく一定、という基準があるそうですから購入額のまま資産となって積み重なっていくのです。しかしながらこれもきわめて大事なことですが、建物が生み出す空間もまた資産です。増え続ける本に合わせて書庫を大きくすることは考えにくいですから、当然、重要度の低い本から処分していく必要がある。では、<重要度>をどのように決めるか。書庫を歩いてみると、どうも誰も手に取っていないだろうなという背表紙が見受けられます。「将来のひとりの読者のために」というのが図書館に取っては重要な役割であると言われますが、教育と研究を支えるためにある大学附属図書館が数十年の時間に亘ってどのようにその機能を最大限に発揮するか、をしっかり考えなければいけないところへ来ているようです。

 研究の最先端を教育に反映させることは大学の重要な機能ですが、そのほとんどは電子情報となって流通しています。静岡大学のメンバーなら大学のどのような場所からでも多くの情報にアクセスできる環境は、多くの、と言うところに限界がありますが、すでに日常となっています。10年後もおそらくこれは大きく変わらない用に思いますが、問題は、コストです。今、電子情報に費やす経費は約1億円。お金の話が続いて恐縮ですが、これは図書館の全ての予算のおよそ半分に達しています。この価格が世界の大手出版社によって決められており、毎年の値上がりは、減少する予算を眺めるにつけため息が出ます。知恵を出さねば。で、手にとって見る蔵書の方ですが、電子情報で管理された本は(静岡大学は残り3分の一の未入力分のが電子情報化を急いでいます)利用頻度が分かります。何年間か全くユーザーの手に触れなかった本は、捨てる対象にしても良いかもしれません。その作業の前に、学生用図書ではすでに参考図書としての役割を終えている本がありそうですから、これは教員の目で判断してもらって図書の減量に早速取りかかることができるでしょう。

 さて、冒頭の話に戻ります。わたしたち自身の身の回りの本は、自分自身がこれから迎えるであろう<時間>に対して、ある種の判断をして<もういらないだろう>と決めることができます。それは、私の時間こそは様々な制約があっても<私のモノ>だからでしょう。地球上に存在する全ての生物に寿命があるわけではありません。私の研究対象である原核生物と呼ばれる微生物には、寿命の概念は当てはまりません。これに対して、多細胞の真核生物にはおそらくほとんど全てに誕生時にあらかじめ遺伝的に決められた生存時間としての<寿命>が組み込まれていると考えられます。わたしたちホモサピエンスの場合の最大寿命は110年くらい。さて、大学附属図書館、あるいは静岡大学には後どれくらい、その使命を担う時間があるのでしょう。一国の教育は百年の計、ということばがかつてあったように思いますが、今、20年後を見通すのは容易ではないように感じます。10年が精一杯かもしれません。さて。

(巻頭言)カフェ、イン ライブラリー
「静岡県大学図書館協議会会報」No.10 (2008. 3)

 国立大学が一斉に法人化して4年。管理運営の面から様々な波が押し寄せて、キャンパスはまだ新しい形に落ち着くには至っていない。予算規模や陣容が大きく異なる90ほどの大学法人が一斉に運営費交付金(そう、交付金で運営されているのです)を毎年1%削減されたり、加えて内閣の決議で人件費を1%づつ削減せよと言われたり、財政的には踏んだり蹴ったりの状態と言っても良いような有様である。そんな中で、研究基盤の最重要な要件の一つである電子ジャーナルは毎年5%の値上がりである。海外の大手資本に牛耳られ、本来は研究成果の生産者である教員や学生の研究活動が、企業論理の荒波の中で小舟のように揺られている。そもそも研究を担う教員も、また学生の親御さんたちも、研究を根幹で支える納税者であるというのに。

 法人化のもう一つの波が今、各大学法人に押し寄せている。法の下に直接運営されていた国立大学が、目標を持って計画を立て、評価によって運営を行うというシステムに変った。法人化後の第1期6年の後半を迎え、第2期にむけて法人として評価を受ける時期がやって来たのだ。その準備に大学は追われている。図書館ももちろんその例に漏れない。法によって守られていた図書館も、目標、計画とその進捗をはかる評価によって運営される主体となった。目標は?!

 図書館に並ぶ<本>はどのようになるのだろうか? そして図書館自身は? 計画と評価の流れの中で表立って来たことに、学生の教育プログラムの進捗を推し量る<単位>が、じつは(!)講義時間をしのぐ自習時間を含むことで成り立っているということがある。図書館の、大学の中での位置づけがここから浮き上ってくるように思う。10年ほど前、アメリカの小さな大学町の本屋で、新刊書が並ぶ書店の中にコーヒーショップがあって、珈琲を飲みながらソファに腰掛けて本を選ぶ、あるいはゆっくりと、あたかもすでに自分のものであるように本を読む姿を見て、軽いめまいを覚えたことがある。大学図書館も新刊書(あるいは良く手に取られる本)と古い書物との間には画然と差別化がなされ、前者は、珈琲の香りが漂う中で読まれるようになっていけばよいのではないだろうか。断固たる批判の声も聞こえそうだが。あるいは、それでは珈琲を除けば現在の開架と閉架(あるいは書庫)との違いだけではないですか、と言われそうである。違います。その比率が明らかに逆転するのがこれからの図書館ではないかと私は思っています。貴重な書籍を除いて学術情報は限りなく電子化していく。そして、自分の部屋ではなく、他人とともに大きなリビングの様な空間で、ある時間を共有していることが一層意味を持つ大学と社会。そんなリビングの横に、自学自習や共同での学習の時間を過ごす学生たちが机に向かう。教育の質を、時間数やレポートの数で(これには多くの教員が、電子情報のカットアンドペーストに参っています!)計るのではなく、学びの雰囲気で計るようになれば。

(静岡大学附属図書館長・教授 専攻は地球環境微生物学)

ライブラリーへぶらり
「図書館通信 : 静岡大学附属図書館報」No.156 (2007. 4)

 静岡大学へ入学された皆さん、おめでとうございます。静岡大学のメンバーの一人として、皆さんが静岡大学の新しい一員に成られたことをこころから歓迎します。

 この文章は、新入生へのメッセージであるとともに、すでに静岡大学のメンバーである皆さんへのメッセージでもあります。

<1万2000人と50万人、85歳>
 皆さんは静岡大学附属図書館の蔵書数をご存じですか?

 附属図書館の母体となった1922年創立の旧制静岡高等学校から引き継いだ古いコレクションをはじめ、蔵書数は116万冊、85年の伝統があります。私は静岡大学に着任して6年になりますが、おそらくは自然科学系の教員の多くがそうであるように、図書館は「(見事に駿河湾を見下ろす閲覧室でゆっくりする時間があれば)いいなあ」と横目で見て通りすぎる建物(存在)になっていました。その私が今年から2年間、思いもかけず図書館に関わらせていただくことになって、資料を見て驚きました。116万冊という本の数ではありません。静岡と浜松の二つの図書館を訪れる人の数について、です。静岡大学は、9300名の学部生。1400名の大学院生。1200名ほどの教職員、都合およそ1万2000の人からなっていますが、図書館は、なんと年間50万の人が利用しているのです。カウンタは人の出入りを数えるだけですから過大評価になっている可能性が大きいのですが、開館日数を350日とすれば1日あたりそれでも優に1000人を超える人の利用がありそうです。立派な数字ではありませんか。重要な数字だと感じます。しかしながら、特定の限られた人たち、リピータがその多くを占めているのかな、とも思います。皆さんも、是非図書館へぶらりと立ち寄ってみませんか。平日は朝の9時から夜10時まで、土曜日も日曜日も9時から夜7時まで開館しています。堅苦しい本ばかりでなく、文庫本も、雑誌も、新聞も置かれています。

<人と出会う>
 情報が電子の形で一人一人の目の前のコンピュータの画面にあっという間に現れる、とても便利な時代になっているので図書館などいらないのではないかという考え方もあるでしょう。自分の部屋に居ながらにしていろいろなことができてしまいます。膨大な量の情報が空気の中を電子の波となって駆け巡る。その一部をかすめ取って、自分の大脳の中でニューロンを刺激して、イオンがそのすき間を駆け抜けて何か<考え>を引き起こし、また電子の海へ情報を返す時代。情報がかぎりなく人間の体(あるいは人間の社会性)とは独立に飛び交う時代。インターネットのホームページには訪れた人の数を表すカウンタがチカチカしています。しかしそこでは<人間の顔>が見えてこない、と思いませんか。

 情報をとらえ、ものの見方や考え方を一人の人間の中で育て、形にする過程で共有する喜び。それはかならずしも議論したりすることでもたらされるのではなく、自分の横で、同じように静かに考えをめぐらせる行為を行っている人がいることによってももたらされるのではないかと思います。悠久の時間の流れの中に存在する私たちが一瞬の時間を同じ場で共有することによって、思わず励まされたり、安堵したりもするのではないでしょうか。ウィーンやパリのカフェで、ゆっくりと新聞や本を読む人々の姿をみるにつけ、そのような行為に浸る時間を共有することの意味を感じます。人と何も話を交わさない、静かで幸せな時間ではないでしょうか。これが文化だと私は思います。電子時代、あるいは電子情報時代というような言葉でこの時代が括られることはあっても、デジタル信号が飛び交うだけではそれは文化には至らないだろうと思います。そのような<便利さ>に象徴されるだけではないものが、すでに強く求められているのではないでしょうか。

<求められるのは>
 静岡大学でも様々な入試の試みがなされています。しかし、大学受験の基本はやはり、どれだけたくさんの情報を一人の人間の大脳のネットワークの中に秩序立てて構築し(Read Only Memory: ROMの作成ですね)、問いに応じて、いかに正確に、それも限られた時間で答えを出すか(高速のCentral Processing Unit, CPUが良いことになります)、ということに集約されるでしょう。ROMやCPUは、少し乱暴な言い方ですが、どんどん外部(コンピュータ)に任すことができます。もっと小さくてまるで自分と一体化したコンピュータはそう遠くない時期に市場に出回るのではないでしょうか。しかし、大脳の中にしっかりした思考のネットワークを作り上げるために、一人一人が営々と知識を集積する作業は求められ続けるでしょう。問題は、それをどの程度求めればよいのかについて私たち大学の教員がはっきりとした検討をしないまま、市場原理(入試競争)に問題を投げ出していることにもあるように思います。もうそろそろ20年後に求められる知識と、知識や情報に関わる人のあるべき姿を想定した教育へと大学が動き出さなければいけない時が来ているように思います。これは私たち教員の宿題ですね。

 さて、今、そして近い未来に向けて求められているのは、ROMや CPUをしっかりした目的に向かって動かし続ける力、静かな情熱ではないでしょうか。人類が長い歴史をかけて積み上げてきた知の行為の記録の森に足を踏み入れることが、皆さんの背中を押すかもしれません。自分の部屋でパソコンに向かうだけでなく、自分に向かい合う静かな時間を図書館で共有してみてはいかがでしょうか。附属図書館も、多くの方の力を得て、人と人とが静かに出会う場にもっとなれば良いかなと、考えています。