館長室から (坂本健吉元館長)

静岡大学附属図書館長 坂本 健吉
坂本 健吉
(巻頭言) インパクトファクターの悪魔
「静岡県大学図書館協議会会報」No.24 (2023. 3)

 高騰する図書費対策はどこの大学附属図書館でも常に最重要課題の一つではないかと思います。学部代表の図書委員時代にはネーチャー姉妹誌を全部入れてほしいなどと好き勝手なことを言っていたのですが、いざ自分が責任ある図書館長になってみると、いかに前任の先生方がご苦労されていたか身にしみて感じられ赤面の至りでした。特に昨今はコロナ禍やロシアによるウクライナ侵略など様々な理由による円安傾向で価格上昇に拍車がかかっており、頭が痛い問題です。
 静岡大学附属図書館でも大学本部からの支援等でなんとか図書費をまかなってきましたが、それにも限度があります。数年前から購入タイトルの見直し作業を行い、学内調整を進めた結果、2023年度からウェブ・オブ・サイエンス (Web of Science、以下、WoS) と Journal Citation Reports (以下、JCR) の契約を中止することになりました。WoSは世界最大級の学術データベースであり、優れた検索機能を持っていることから本学でも多くの利用者がいます。また、JCRは雑誌の評価指標であるインパクトファクター(以下、IF)を提供しています。当然ながら、これらの契約中止については多くの異論がありました。WoSは完全に同等ではないものの代替手段がありますが、IFが使えなくなると昇任時や採用時の評価が出来なくなるという根強い意見があり、結論に至るまで長い議論が必要でした。その議論に際して、非常に有用だった本が『科学者をまどわす魔法の数字,インパクト・ファクターの正体:誤用の悪影響と賢い使い方を考える』(麻生一枝著、日本評論社、2021)です。大学図書館関係者の皆様には釈迦に説法を覚悟で、以下はこの本を参考にしながらIFについて述べることにします。
 このIFという言葉、数年前に放送された某医療系テレビドラマの中でまるで「ドラゴンボールの戦闘力」のように扱われており、IFの合計点で学会理事長が決まるという描写があったりしました。 一般視聴者の中にはIFは個人の研究能力指標のように誤解した方もいるかもしれません。しかし、IFは論文雑誌の評価指標で、毎年変動する数値です。これは、その雑誌のIFが以下の式で計算されることから明らかです。すなわちIF =(ある年に、その雑誌が前年と前々年に掲載した論文が様々な雑誌に引用された延べ回数)÷(その雑誌が前年と前々年に掲載した論文総数)であり、雑誌全体としての「直近2年の平均被引用回数」と表現できる数値です。したがって、発表されたばかりの論文の評価、ましてやその著者個人の評価に使えるわけがありません。本来は「図書館が限られた予算やスペースの中で、どうやって学生教育にも一流の研究にも役立つように雑誌を選ぶか」という目的で使われていただけの数値でした。それが、ここ20〜30年ほどは給与や昇進、さらには採用など科学者のキャリアを決定する際に用いられる「魔法の数字」になってしまいました。小数点以下3桁の精密そうな数値なので、もっともらしく便利に使えるのでしょう。しかし、IFを個人評価に使うことは前述したとおり明らかに誤用です。
 しかも、IFの値それ自体にもいろいろな問題点があります。IFは研究者数の多い研究分野では必然的に大きな値になりますから、分野間での比較には使えません。対象年が2年間と短いため、長期間に渡って引用されるような息の長い研究の評価には向きません。また、中央値ではなく平均値ですから、たまたま「バズって」、極端に引用数が多いようなスーパー論文が何報か含まれていると、それだけでIFは急上昇してしまいます。
 さらには、査読に際して自社の雑誌掲載論文を引用するように指示するといった出版社側の「テクニック」も存在するそうです。また、本書ではIFの高い雑誌ほど不正発覚等で撤回される率が高いという事実も取り上げられており、これは「魔法の数字」が研究モラルにまで深刻な悪影響を与えていることを示しています。さすがにここまで来るとIFは「魔法の数字」どころか「悪魔」とよんでもよさそうに思えてきます。
 こういった観点から、はやくも2007年にヨーロッパ科学編集者協会(EASE)が「IFの不適切な使用に関するEASE声明」を、また2012年には学術誌の編集者と出版関係者が「研究評価に関するサンフランシスコ宣言(DORA)」を、さらに昨2022年にはヨーロッパ大学協会(EUA)が「研究評価の改革合意書」を発表しており、いずれも科学者の雇用、昇進、助成などの評価にIFは使用しないよう呼びかけています。こういった背景をご理解いただき、本学ではJCRの購入は中止するという結論に至りました。
最後にノーベル化学賞を受賞した某先生が研究者の人事評価に際して述べたと伝わっている言葉を紹介して本稿を終えたいと思います。「人事を被引用論文数で決めるなら足し算のできる小学校低学年の子どもにもできる。インパクトファクターで決めるなら、割り算のできる小学校高学年の子どもにもできる。人事は研究内容で決めなさい」。

(巻頭言) すべてについての何かを、何かについてのすべてを
「図書館通信」No.174 (2022. 4)

 新入生の皆さん、ようこそ静岡大学へ。
 コロナ禍での不自由な状況もようやく先が見えてきたと思われた矢先、ロシア軍によるウクライナへの侵略がはじまり、世界はコロナ禍とは違った意味での混乱と転換の真っ最中にあります。私たちは否応なしにこの歴史的大事件の目撃者になってしまいました。かの地でいったい何が起きたのか、起きているのかを知るためには歴史や地理を知る必要があるでしょう。全世界が協調して行っているロシアへの経済制裁について理解するためには、世界の流通や貿易がどのように回っているのかについての知識が要ります。また、ウクライナは1986年に原子炉の事故としては最大級の爆発事故を起こしたチェルノブイリ原子力発電所があった国でもありますが、ロシア軍がウクライナにある原子力発電所を攻撃し占拠した場合、いったい何が起こり得るのかについての情報を持っていないと、要らぬパニックを起こす原因になるかもしれません。
 もちろん、それら全てについて全員が高度な専門的な知識を持つことは出来ません。しかし、何事につけ考えて理解する上での根本として基礎的なことを知っておくことは、これから長い時間を生きていく皆さんにとって、たいへん重要なことだと思います。基礎もなく「ぼくがかんがえたさいきょうのりろん」を振り回しても、誰からも相手にされません。また、ちょっとした知識がなかったために誤った情報、ニセ科学・ニセ医学を真に受けて健康被害を受けたり、ネズミ講詐欺で金銭損害をこうむったり、さらには自らがデマの発信源になって加害者になることすらあるかもしれません。このように基礎的だけれど大切な幅広い知識を「教養」と言うことが出来るでしょう。
 最近、日本の大学では「教養」という言葉を古くさいと考えたのか、そのかわりに「リベラル・アーツ、liberal arts」というカタカナ言葉を使うことが流行っています。しかし、幅広い知識という意味での「教養」が使われ出したのは大正時代だとされている一方、「リベラル・アーツ」はギリシア時代までさかのぼる概念なので、実は、「教養」のほうがよほど新しい言葉だったりします。この「リベラル・アーツ」を直訳すると「自由技巧」となって意味がよく分かりませんが、いろいろな束縛から自由になって何事が起きても自分なりの判断をするための知識を集め、思考方法を学ぶことだと解釈すると釈然とします。
 何かを知った後と前では世界が全く違う新しい見え方をするというのは、よくあることです。19世紀末を生きた文学者、オスカー・ワイルドは「自然は芸術を模倣する」という逆説的な言葉を残しています。自然の美を写し取る、真似をするのが芸術じゃないかと思うかもしれません。しかし、例えばゴッホの絵のようなヒマワリだとか、今日の日差しはルノアールの描いた景色を思わせるとか、台風の荒波が北斎の絵にある波頭に見えるとか、逆説的どころか我々が普通に感じることであったりします。画家の目を通して世界が広がり自由になった結果であり、こういった感興もリベラル・アーツといえそうです。もっとも、百人一首の「逢い見ての 後の心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり」という権中納言敦忠の歌は、知ってしまったために恋の束縛が強まってしまった、自由が無くなったといった心情なので、逆のこともないわけではありません。しかし、まあ恋心というものは仕方のないもので…
 閑話休題(それはそうと)。「すべてについての何かを、そして何かについてのすべてを知るように努めなさい (Try to know something about everything and everything about something.)」、これは19世紀イギリスの哲学者・経済学者であるジョン・スチュアート・ミルが言ったとされる言葉です。前半の「すべてについての何か」が浅くても広い教養というものであり、後半の「何かについてのすべて」が専門分野の知識を指しています。19世紀の昔から西欧でも日本でも高等教育の場ではこの両者を学ぶことになりますが、順番としては教養を身につけた後で専門的な分野を修得して卒業することになります。
 しかし、いったいどうやって自分の専門分野を決めるのでしょうか。新入生の皆さんは、自分はもう学部・学科が決まったのだから、後はカリキュラムどおりに勉強すれば自然に何かの分野の専門家になれると思っている方が多いかもしれません。しかし、それぞれの学部・学科にも非常に多くの研究分野があります。教員一人一人が異なった分野の専門家です。例えば、私は理学部化学科の教授なので大きくいえば自然科学の研究者ですが、専門分野は有機化学、さらに細かな分類では有機ケイ素化合物の合成や物性解析が専門となります。この分野に絞れば世界でも専門家は数十人といったところでしょうし、どんな学問分野でもこんな風に細分化されています。
 そんなに多くの分野の中からいったい何をどうやって選べば良いのか。人それぞれですが、なにを専門にするかは興味本位、少し古い言葉を使えば「面白ずく」で決めるのが一番ではないかと思います。学問だけではなく多くのことについて少しずつでも知識を深め、経験を重ねていく中で、特に興味を引くことに出会えたらしめたもの、それは人生の幸福というものです。自分が面白いと思うことを学ぶことは苦になりません。もちろん、企業側が「即戦力」を求めてくる場合もあるでしょうけれど、面白ずくで突き詰めていく作業は、すべての分野に通用する力になると思います。つまり「何かについてのすべて」を究めることは「すべてについての何か」に通じるのです。
 この激動の時代にあっても皆さんの大学生活が実り多きものであることを!

(巻頭言) コロナ禍のなかで
「静岡県大学図書館協議会会報」No.23 (2022. 4)

 2年以上におよぶコロナ禍のなかで、皆様方の大学も運営には大いに苦慮していることと思います。すべての大学で従来ほとんど未経験だったオンライン授業が実施されるようになりました。また、当然ながら大学図書館においてもサービスの力点をどこに置けばよいのか、大きな転換期を迎えています。「来てもらえる図書館」から「来なくても使える図書館」へと、従来とは全く異なる発想が必要とされます。
 静岡大学附属図書館の本館と分館の入口には、“Tolle lege.”というラテン語の銘板が掲げられています。これはローマ時代の思想家アウグスティヌスの著作、『告白』にある言葉だとのことで、英語であれば“Take up and read”、つまり「手に取って読みなさい」という意味だそうです。本来、図書館という空間は実際に原典を手にし、それを自らが能動的に読み、学び、想像を巡らし、新たな創造を行うための場であります。今後もそれは変わらないと思いますが、急速にデジタル化が進んでいる現代では「手に取って読みなさい」という文字どおりの意味での運用だけではなく、より広く捉えることも考えなければならなくなりました。
 コロナ禍のなか、対面での会合が行える状況にはないため、本会の活動も大きく制限をうけております。令和2年度は本協議会主催の研修会や講演会を開催することはかないませんでした。しかし、ようやく去る12月16日に令和3年度実務者研修会をZoomによるオンラインで開催することができました。講師として静岡県立中央図書館の森川氏と杉本氏をお招きし、「静岡県立中央図書館が実施する電子図書館サービス」と題してお話しして頂きました。
 静岡県立中央図書館では、静岡県デジタル戦略局が進める「ふじのくにデジタルトランスフォーメーション推進事業」の一環として、すでに実証実験「電子図書館サービス」を開始しておられます。そのメインターゲットは高校生から新社会人であり、大学生の利用も重視されていることから、県立中央図書館と県内大学図書館が協働することにより、大学生の知識の拡充及び経験の獲得にさらなる貢献が出来ると期待されます。
 ご講演によると、県立中央図書館では令和3年10月1日から「電子図書館サービス」を開始しているそうです。導入した電子書籍サービスは紀伊國屋書店の「KinoDen」であり、主に「学習」、「仕事」、「QOLの向上」の3つをテーマとした、知識の拡充と経験の補完を支援する資料を提供しているとのこと。多くの公立図書館が一般的な読者を対象とした蔵書を揃えており、大学図書館は専門書を中心とする蔵書の充実を図っていることから、県立中央図書館ではその中間的な層を狙って蔵書を選んでいるとのことでした。サービス開始当初の提供冊数は500冊でしたが、本年2月現在の提供冊数は756冊にまで増えているそうです。静岡県職員採用試験等の例題等も利用可能であり、これは県内での就職を考えている大学生には有り難いことです。
 また、利用に関しても県立中央図書館は電子化の取り組みをしており、登録から電子図書館等の利用まで来館することなくサービスを受けることができます。これはたいへん便利なシステムであり、これまで図書館に親しみを感じていなかった方々にも手軽に図書館情報にアクセスする道が開けたといえるでしょう。
 しかし、便利で有り難い半面で残念なこともあります。県立中央図書館は日本平に連なる自然豊かな丘陵地にあります。駐車場から県立中央図書館までの道は彫刻プロムナードと名付けられており、12点もの彫刻群が設置されています。周囲の木々が四季の移ろいと共に変化していくなかで彫刻の道を歩くのは、今の時代にあって得がたい癒やしになります。そんな経験なしで情報にだけアクセスするのはちょっと勿体ないな、 “Tolle lege.”の心は大事だなと、アナログの心が顔を覗かせるのでした。チャンスがありましたら、ぜひこの道をたどってみて下さい。

(巻頭言) 魂の癒しの場
「図書館通信」No.173 (2021. 4)

 新入生の皆さん、ようこそ静岡大学へ。もう少しのあいだはコロナ禍での不自由な状況が続くと思いますが、世界的にワクチン供給も始まっているなど明るい兆しも見えています。しかし、このコロナ禍によって、多くの社会システムが変わらざるを得なくなりました。学内でいえば、これまでは実施困難とされていたウェブ配信による遠隔講義がいやおうなく実現化されています。図書館もまた、この歴史の転換点的なコロナ禍を経て大きく変わっていくことになりそうです。
 ここで、少し図書館の歴史をたどってみましょう。史上初めての「整理された図書館」として知られているアッシュールバニパルの図書館は紀元前7世紀に設立されたもので、メソポタミア文明のくさび形文字を記した粘土板がジャンルごとに分類されて保管されていました。19世紀半ばに発見されるまで2500年も地中に埋もれていた遺跡ですが、有名な『ギルガメシュ叙事詩』を含む3万点あまりの粘土板が発掘されています。
 この図書館は中島敦の『文字禍』という小説の舞台にもなっています。「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」のため虎に変身してしまった男の物語、有名な『山月記』と同じ短編集に収録されているので、ご存じの方も多いかもしれません。『文字禍』には当時の図書館の様子が描かれています。「人々は、粘土の板に硬筆をもって複雑な楔形の符合を掘りつけておった。書物は瓦であり、図書館は瀬戸物屋の倉庫に似ていた」とあって、今の図書館とはずいぶん様相が違っています。その図書館で毎夜ひそひそ怪しい話し声を発するという文字の霊を研究していた老博士ナブ・アへ・エリバがこの物語の主人公です。彼は文字の霊が人間に災いを及ぼすことを突き止め、アシュル・バニ・アパル大王に文字の恐ろしさを進言しますが聞き容れられず、最後には地震で崩れ落ちてきた数百枚の粘土板(書物)で押しつぶされてしまいます。文字の霊という虚構が格調高い漢文調の文章で不思議なリアリティを与えられており、『山月記』に魅力を感じた方にはオススメの小説です。
 粘土板の文書は長期間の保存に耐えるのですが、いかんせん重すぎてペラペラとめくって読むなどといったことは無理でしょう。もちろん、限られたスペースに収蔵したり、遠くに運ぶのが大変だという難点もあります。このためほぼ同じ時期のエジプトでは軽い植物由来の「紙」であるパピルスの文書が発達していました。また、パピルスが採れない地域では、羊皮紙が作られていました。こうしたいわゆる「紙」の書籍収集で有名なのが紀元前3世紀ごろに作られ、数百年間のあいだ世界の学問と知識の中心となったアレクサンドリア図書館です。一説によると40万冊もの本があったとされていますが、たび重なる戦火などで失われてしまいました。
 この図書館のパピルス蔵書の棚の上には「魂の癒しの場」という語句が刻まれていたと伝えられており、これはラムセス2世の図書館にあった碑文に由来するものだそうです。たしかに日常から離れて短時間でも本の世界で精神を遊ばせることは「魂の癒やし」といえます。そういえば、同じ語句をスイスのザンクト・ガレン修道院図書館の入口で見た記憶があります。ここはスイス最古の図書館で創設は8世紀。今では世界遺産に指定されていますが、大きなスリッパを履いて館内を見学することが許されており、そこで羊皮紙に手書きされた美しい写本に直に接するのは眼福と言えましょう。
 さて、粘土板やパピルス、羊皮紙の時代から紙の時代を経て、今やデジタル化された「書籍」が増え始めています。小さなノートパソコンがあれば学術雑誌はもちろん、世界中の膨大な資料にウェブ経由でアクセスできる時代になりました。特にコロナ禍下においては図書館に出向くことなく、また現物に触れる必要もない電子媒体の利用が進んでいます。便利さで言えば格段の進歩ですが、保存性の面ではどうでしょうか。デジタル情報はそれに対応するハードウエアとソフトウエアが必要であり、それが百年、二百年と同じ規格で使えるとも思えません。意外に粘土板や紙媒体より寿命が短い可能性も高そうです。実際、デジタル化の一方で各種の資料をプラスチックの写真フィルム(素材の寿命は500年!)に小さく写して保存するマイクロフィルムという極めてアナログな手法が図書館で使われています。
 このデジタルの時代に「魂の癒しの場」、古くから伝わる図書館という居心地の良い空間をいかに維持していくのか、また「書籍」をどうやって次の世代に伝えていくのか。それを考えて実現させていくのがコロナ禍後の図書館の方向性となるでしょう。
※『山月記 ; 李陵 : 他九篇』(岩波文庫)は静・書庫、浜・開架。『文字禍』は青空文庫にも入っています。